五十嵐太郎さんを囲み建築あそび2001年12月8日快晴
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その3  天理教 2 
 
◎ スライド8

                 

教団のお祭りのポスターなんかにも、鬼瓦と千木のディテールが入っていて教団にとっての一つのシンボルになったということを示しています。
 ただですね戦後、1945年以降は新宗教に対する・・・そういう圧力って無くなってきたので、神道系列に天理教があるっていうことを、天理教の人に言うだけでも不愉快な顔をされるんですよね。
 
 だから神道の系列にあるということも嫌うわけです。そうすると戦後に幾つか神殿の大きな増改築をするんですけども、このディテールっていうのは逆に神道を絶対思い出させるので、「もはや必要ないんではないか」という議論を、天理教内部に出てきます。

 最終的には信者が「この形が重要な形だ」っていうこと、みんな慣れ親しんでるからいまさら替えるのは止めようと・・現在もこの鬼瓦と千木が合体した形っていうのは使われている。

◎ スライド9

              

これがですね、さっきの大正普請の時の形で、左側に神殿があって右側に教祖殿がある。一寸分かりづらいかな・・。教祖殿というのは、教祖が亡くなったあとに・・教祖は115才まで生きるって言ったんですけど、90才で死んじゃったですよね。

  教団の人は大慌てでどうしようか、ていうことで、まだ生きてるかのように振る舞う施設を作るんです、それが右側の教祖殿です。元々教祖が言ってる言葉に関係無く、・・教祖が死んだ後に教祖殿ていうものを作って、神殿と教祖殿を並べる形が出来ています

◎スライド10

              

1930年代に大きな増改築をやってですね、それがこれなんです。

     五十嵐立ち上がりスライド画面に近づこうとするく

s 私かわりましょうか・・ 
    五十嵐今まではスライド操作していた・・スライド操作を代る

 ぁあ・・いいです。昭和にあった大きな増改築で、中山正善っていう非常に頭のいい男が、教主になったんですね。その人が「天理教の建築や空間をどうしようと・・」、かなり真面目に考えてですね、いろんな建築家や建築史家にも相談して、で・・教祖がいろいろ残した言葉を解釈して、この言葉はこう解釈出来るってことを加味していって、1930年代に、この形式を完成させるんですが・・

 まず神殿がこれなんです教祖殿で回廊で両側からつなぎます、この神殿はですね、ここに甘露台ってかいてあるんですけど、ここの下にさっきの甘露台があるんですが、南っかわと北の・・南北から礼拝所で挟むかたちが出来るんですよね。

 これはとても重要なことで、さっきの・・大正時代ではココが無くて、北側だけに礼拝所があったんですね。

 だから北側から甘露台を拝むっていう形式しか無かったんですけれど、昭和の大きな普請の時に、北からも甘露台を拝むし南側からも甘露台を拝む挟む形式が出来るんですよね。で挟む形式がなぜで出てきたかというと・

 神の屋敷は四方正面であるとか・・ようするに、甘露台だとか神の屋敷は四方向とも正面であるっていうようなことをいっているんです

 だからその言葉を、有る意味強引にですね建築的に置き換えていくとですね、どこから拝んでも平等にっていうか、同じように見れる場所を作ろうって・・いうふうに読み替えるんですよね。

 この段階だとその、こっち側からだと方向性・・ハッキリ奥行き・・甘露台に向かってあるんです。ここで挟むっていう。こっちからも信者が拝むし、こっちからも信者が拝む。挟むっていう形式が出来るんですよね。

 甘露台が真ん中に有って、両側から拝むという作りかたが出てきてですね。これはかなり天理教の空間の歴史を考えると、すごい決定的な瞬間で、これが出来たのが1930年代ですから、100年経っているですね。

 教団が発足して100年後にようやく・・建築的な概念っていうのかな・・。空間概念が出てきてます。

次・・すみませんお願いします。 映像の前にたっていた五十嵐スライド操作を頼む 

s いいです・・いいです

 直接指さしたほうが分かりやすいですよね。  会場うなずく

◎スライド11

                

i・・昭和普請のときに出来たのが、真ん中の甘露台が有る場所はここなんですけど、ここでも甘露台は聖なるものなんで描かれてないです。ここに柱が立っています。

 面白いのは、柱の真上の所はですね・・吹き放ちっていうか・・空いてるんですよね。トップライトでもなく、雨水がそのまま落ちる。ガラント天井が空いている。なんで空いているかというと、そもそも甘露台っていうのは、天理教の教えが成就したときに、天から甘露を受け止めるっていう機能も当然あるし、その教祖とあと、二代目に・・飯降伊蔵いぶりいぞう)・・っていう男が教主になるんですけども。その人 大工だったんですね。
 
 大工だった 飯降伊蔵 が割と具体的な建築のイメージを言っていてですね、「甘露台は雨に打たれるモノだ」とかって言ってる。あるいは「一間四方を開ける」みたいなことをチョツト言ってる。その時点では全然建築的なものは何もちゃんとしたモノは無かったんだけど、言葉だけ残っているから、後の人がその言葉を一所懸命、空間に翻案しようとしてですね、この形式が出てくる。もともと言葉過ぎないモノがダンダン固定化していくのがこの30年代です

◎ スライド12

              

 これは場所が変わるんですが、何でこの写真を紹介したかというと、一寸この写真では分かりづらいんですが・・、正面手前に道路があるんですが、道路に対して一寸軸が振れてるんです。道路に平行に教会が建って居るんではなくて斜め方向に教会が建っています。

 なんで斜め方向に建っているかというとですね、天理教では天理市の神殿以外の地方にあるあらゆる教会はですね、御地場の方に向かって拝むように作るっていうのが決まっている。
 
イスラム教も世界中どこにモスクを作っても、メッカの方向に向けて拝む、礼拝するっていうことをモスクに限らず、道ばたで拝む時にもそうしなきゃいけない。

 天理教も基本的には同じ事をやっていて・・京都の河原町教会は、全然場所の・・敷地割とは関係ない方向にずれているのは、天理市にある地場の方向に向けるためなんですね。

 これをですね、いま我々が聞くと、なにか最初っから計算されてそうなったかのような気がするんですが、これを決めたのも1930年代なんですよね。

 逆にいうとそれ以前に出来た地方の教会といいうのは全然勝手な方向を向いているんで、後で建て替えをするときに、向きを替えるんですけど。
 1930年代のさっきの昭和の普請をやったころに、中山正善ていう男が、この方角のルールを決めてですね、世界中どこでも向くと。

 彼らが世界の中心だと考えてることを空間的に表現するには、とっても分かりやすいシステムだと思います

 ちなみに中山正善ていう男は東大の宗教学科まで出た男なので、世界の宗教の問題は当然知っていただろうから、おそらくイスラム教のモスクでこういうことをやっている、ということは絶対知っていただろうと想像出来ます。まぁーそういうのを参考にしてこういうルールを決めたのかもしれません。

◎ スライド13

               

これは大正時代の地図なんですけど、ここが駅、ココが本部。大正時代ですから、昭和の普請が終わる前です。このへんに神殿があって教祖殿がある。

周りにですね、一杯地名が書いてあります・・なにかっていうと詰め所って言ってですね。天理教で大きなお祭りをするときに信者が一斉にこの町にわーっと、来るワケですね。そうすると宿泊施設が足りないわけですね。普通はそんなに一杯人がいる町ではないわけだから、宿泊施設に困るんですね。また後になって何十万人が来ちゃうわけだから、宿泊施設に困るんですね

 ホントに最初の頃は近くの民家を借りて、そこで寝泊まり炊事させてもらったり、或いはバラック小屋みたいなのを作って寝泊まりしたんですけど。まーそれにしてもシンドイっていうことで、各地方教会が自分の宿泊施設、詰め所というのを町のあちこちに作るんです。

 大正時代にすでにこれだけあってですね、今は100以上のものが町に散らばっていて、だからまさに宗教都市として、ダンダン発展していくわけです。単に神殿だけでではなくて。

 逆に天理市には普通のホテルとか旅館とか1・2個しか無いんですよね。結局教団が自前の宿泊施設をつくっているから普通のホテルとかに頼る必要がないし、そういうモノが出る幕がない。

◎スライド14

             

これが現在の神殿なんですけども、このあたりが甘露台がある。これが南側の礼拝場、これが北側の礼拝場。大正時代にはこれとここまであったんです。
 昭和の10年代に南の礼拝場が付いて、南北が整う。最終的に今あるのは1980代に、礼拝場をさらに東西に増築しました

これで真ん中に甘露台・地場があって、それを東西南北の四方向から拝むという形式を完成させて、四方正面である。「神の屋敷は四方正面である」というような言葉を文字通りに、空間化していくわけですね

 おそらく、予言した教祖本人はこうした神殿を想像していなかったと思うんですけども。言葉っていうのはとにかく残ってしまうと、ある意味を持ってしまうし、特に教祖が言った言葉っていうのは後から非常に絶対視されますし、その形に従って・・こうなるんですね
 
 誰でも出入り自由です。特に厳しいチェックもなく、たしか夜でも開いてたとおもいました。ただ写真撮影は・・中でしちゃいけないってことになっているんで、一寸残念ながら、スライドでは内部を見せることが出来ないんですが、ホントに面白い宗教空間なので、奈良まで行くことがあったら、天理市まで行ってですね、15分ぐらい歩けば見れるので、是非見てもらいたいと思います
 
 なぜ面白いか、ていうと。真ん中に柱が立っていてですね、それを四方向からみんなが拝むんですね
 佐藤笑う
こういう宗教空間って確かにユニークで、僕の知る限り他にも聞いたことがない・・ないんですよねー。だから世界的にも非常にユニークな宗教空間を、現在作っているっていうことで大変面白いっていうことで、是非見てみてください。

◎ スライド15

             

これは教祖殿ですねこちらが神殿でこちらが教祖殿。神殿と教祖殿には、千木が付いた特殊な鬼瓦が付いてます

◎ スライド16

             

これ西側の礼拝場ですね

◎スライド17

              

こえれは昭和段階の模型なんですけど、南北の礼拝場。東西は無いんですけども。ここは教祖殿。回廊でつながっている。

 で、この周りになにか、ズーット連続した建物が模型的に見えますよねー
これはなにか・・っていうと、さっき(スライド1)駅のホームから見た写真でもチラツト見えたモノなんですけども、「おやさとやかた計画」という巨大な都市プロジェクトを考えていて、ですね。・・・ようするに、この神殿を取り囲んでですね、全部連続した巨大構築体でつないじゃおーっていうプロジェクトがあります。

 このプロジェクトは1954年にスタートしました。なんでその年にスタートしたかというと天理市が発足した年なんです。

 それまで、丹波・・っていうかんじだっんです、周りの6つぐらいの市町村が合併して、天理市が五四年ぐらいに誕生するんです、それにあわせて一大都市計画をうち立てるんです。これも中山正善が考えているんですが、建築サイドだと東大の建築の先生の内田祥三って言う人が関係してます。
 天理教の信者で東大の建築学科を卒業した、奥村音蔵の三人ぐらいの人間が考えて、この都市計画のプロジェクトをうち立てます。

 ちなみにこれ正方形で、全部取り囲むんです。一辺800メーターぐらいあるんです。全部4かけると、3.5キロぐらいになる。3.5キロ連続した建物でこれを取り囲むという都市計画を・・一応現在も進行中です。

 なんでこんなプロジェクトがでてきたか、というと、これも教祖が残したこ言葉に由来していたですね・・なんだっけなー「神の館は八丁四方になる。八丁四方が全部神の館で埋まる」っていうことを言ってるんですよ。
 おそらく言った本人は、この町が賑わうってツモリぐらいで言ったんだと思いますが・・。

   会場笑う

八丁って数字は800数十メーターに換算されます。

   会場笑う

だから、その辺にちっちゃな増築プロジェクトがあったんだけども・・教祖がこう言ってるていうのが気が付いて、そのプロジェクトの場所からここの距離を測ると丁度400十数メーターあったんですよね。ということは800数十メーターの半分にあたるから、それを全部つなぐプロジェクトを作ったらいいんじゃないか・・

  会場笑う

ていうことでこのプロジェクトが動き出した。だから文字通りに数字や言葉が建築化していっているわけです

◎スライド18

               

出来てるところで一番南側の所ですね。「おやさとやかた計画」の。この奥この道路の向こうに神殿・・特徴的なのは屋根なんですけども、千鳥破風って言うんですけども。こういう三角形の破風がポンポン飛び出してる。こういう千鳥破風が連続した建築を作っている。
 これはいろんなモノが入っていて。このへんは天理教の事務的な・・天理大学がこの右側にはいっている

◎スライド19

               

これはですね。一番最初に・・50年代に竣工した所ですね。わりとピロティーになってる所が何カ所かあって・・ピロティーになってるところに石があるんですけど、この石の向こう側かな・・手前側かな・・が、丁度御地場がある線を真っ直ぐ東に延ばすと、ここにぶつかるんです。

 だからこの正方形のちょうど中心が、彼らの考える世界の中心と綺麗に一致するようになっている。それをマーキングする石なんです。ちょうど東西南北の所は・・さっきの南っかわのヤツも、一層目がこういう吹き放ちのピロティーになっていたんですけども、こういう形になっている。

◎スライド20

                 

 で、ですね。これはですね、さっき言った、奥村音蔵っていう東大の建築学科を出た天理教の信者。の卒業設計なんです。東大の建築学科の図書室にあるもので、探してきて写真撮ったんですが、かれは卒業設計でこんなことをやっていた。

 これでみると非常にモダンな・・彼は卒業したのは30年代ですから、近代建築のバウハウスだとか、ようやく情報で伝わってるころだと思うんですけれど、非常にモダンな・・ただ・・よく見ると共同宿泊場というプロジェクトなんです。この卒業設計には説明の文章が全く無いんですけども、天理教の信者が共同宿泊場の卒業設計やったの、さっきの詰め所をイメージしたと思うんですね

 つまりお祭りの時に信者がいっぱい帰ってきても「泊まる所がない」っていうのは大変だっての・・彼知ってたから。おそらく天理教の詰め所をイメージしてつくっている

 ただ最終的にはモダン形ではなくて、この上に屋根がね・・。すごい日本風の屋根が全部付いているというのが今の「おやさとやかた」なんですけども・・まーそういう彼の前世がここのあるっていう資料です

◎スライド21

                 

これはですね、なんでこういう屋根になったかという、説明をしたいんですが。これは天理高校なんですけど。30年代の後半に作られた建物です。

 これを設計したのがですね、東大の構造系の先生なんです。内田祥三。天理のキャンパス計画なんかもやっているんですが。その人が中山正善と仲良くて、天理キャンパス計画なんかもやってたんです。キャンパス計画はほとんど実現しないで、唯一出来たのがこの建物です。

 この建物が千鳥破風を持ってる最も古い天理教関係の建物です。これが基になったんですよね。だから奥村音蔵は内田祥三の弟子でもあるので、「おやさとやかた」をやる時に和風の屋根を付けるにしても、なにか参考にするものが必要で、まー先生がヤッタ、この「天理高校の形を参考にさせて頂きました」ということで、これが全部覆う形になっていった。




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